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バラと人の歴史 〇概観

バラは紀元前8世紀頃のホメロスの2大叙事詩や同4世紀のヘロドトス「歴史」に記載され、古くから親しまれていたと思われます。

ペルシアはバラの国と言われ、アレクサンダー大王の征服によりそのバラと庭園の文化がヘレニズム世界に広まり、エジプトはバラの大産地となりました。クレオパトラはアントニウスを迎えるときにヒザまで埋まるほどバラの花びらを敷きつめたということです。

そのバラはおそらくガリカあるいはダマスク系の品種だったでしょう。

ローマ時代に入ってもバラはたいへん尊重されましたが、キリスト教では当初はバラが異教的なものとして敬遠され、キリスト教国教化以後しばらくのあいだバラ栽培技術は西欧から失われてしまったそうです。

中東でイスラムが興隆すると、イスラム圏ではハスに替わってバラが花の王となり、バラ水や香料生産のため大規模に栽培されるようになりました。

キリスト教世界でも、白バラはマリアの純潔、赤バラは殉教の象徴と見なされるようになり、「バラの奇跡譚」などもあって徐々に復権していきます。

13世紀には十字軍のティボー4世がガリカを持ち帰ったとされ、それはアポテカリーローズ (薬剤師のバラ) として評判となり、プロバンス地方で大いに栽培されました。

15世紀にはローマ教皇から「黄金のバラ」が英国王など有力信徒に授与されるようになりました。

しかしルネサンス期を過ぎても、バラ品種はおそらく4系統ほどしかなく、品種の増え方は微々たるものでした。

 

ところが 1792年以降、中国から四季咲き性の品種が導入されると、品種開発熱が高まります。ちょうどナポレオン妃ジョゼフィーヌが離婚してマルメゾン城にバラを蒐集するようになった頃 (18004-14) です。

そして1811年頃のノワゼット、1840頃のハイブリッド・パーペチュアルの誕生以降は爆発的に新品種が作出されました。

モダンローズの嚆矢とされるハイブリッド・ティが 1867、さらにフロリバンダ 1923と続き、今日ではオースティンのようにオールドローズの良さを生かした新品種も続々と生み出されています。

花の王

中国では「百花の王」は牡丹ですが、西欧でもイスラムでも花王はバラです。ランも品種はバラ以上に豊富ですが、花の王とまでは行かないようです。

バラが花王である所以を考えてみると、私見では以下のようなことが考えられます。

 <中世まで> 

①香りがすばらしい

②まとまって咲く / 次々と咲く  (近代では四季咲き)

③文学や宗教などの文化的蓄積がある

 <近代以降>

④新品種が作りやすい (アマチュアでもできる)

⑤つるバラなどで立体的な仕立てができる 

    (特に1899以降)

⑥命名の妙 (歴史上や同時代の著名人にあやかる)

◆ 参考

「バラ・花図譜」鈴木清三著 小学館 1990。

「バラの文化誌」キャサリン・ホーウッド著、

    駒木 令訳、原書房 2021 。

「RHSバラ大図鑑」 チャールズ&ブリジット・

    クエスト=ワトソン  2003 ロンドン、

    日本語版は主婦と生活社。

「花と庭園の文化史辞典」 ガブリエル・ターギット

    著、遠山茂樹訳 、八坂書房 2014。

 Web 「GARDEN STORY」『ジョゼフィ

    ーヌ~バラを愛したナポレオン皇妃』

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